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なろう系小説から現代人の望みを考えてみるブログ

なろう系小説は現実逃避ツールなの?現代はそこまで不幸な世の中なの?小説家になろうから現在人の望みは何なのかを考えてみるブログです。

『異世界食堂』の魅力と罠

2017年夏期にアニメ化される『異世界食堂』。

 

作品自体はなろうで2013年から連載している。

 

今回のアニメ化に際し、人気の秘密、魅力、そして読むときの守らなければいけない注意点を語っていこうと思う。

 

まず、概要説明すると

毎回出てくる洋食屋のおっちゃんは普通の人である。

こんな設定の物語でよくあるパターンとして、異世界に迷い込み料理がうまいと評判を聞きつけられて、王宮に召し抱えられ、王の側近として内政チートを起こし国を豊かにしていくというのが異世界ものあるあるだ。

 

しかし、この『異世界食堂』に毎回出てくるキャラクターは普通のおっちゃんのままで、剣も振らず、国に関わることもない。というより店からすらあまり出ない本当にただのオーナーシェフだ。

 

異世界要素はどこにあるかと言われると、扉が異世界に繋がっていることである。

 

「扉を開けたら異世界でした。ただし、中は普通の洋食屋。異世界なのは扉の前です」

 

漫画の帯を付けるとしたらこんな感じだろう。

週に1回「ドヨウの日」に異世界の住人が現代日本の一般的な洋食屋に入り込んでお客として舌鼓を打ち満足し、扉から異世界に帰って行く。

あらすじとして書くとただこれだけの物語であるがとても面白い。

 

 

異世界食堂』の魅力

 

魅力はやはり料理だろう。

とても美味しそうに描かれて客が満足していく。

小説の食べ物紹介文のイメージをハンバーガーで例えるなら以下の様な感じだろうか?

 

「俺が頼んだのはハンバーガーなる食べ物だった。丸く中央が膨らんだパンを横に半分に切り、中に肉の塊と厚めに切ったオラニエ、酸味を付けた緑色の野菜が挟んであるという簡単な料理だ。

 

しかし、とりわけ目を引くのが赤いどろっとしたソースだ。恐らくマルメットを原料にしたのだろうがそのアイデアだけで商品にできる画期的なものだ。酸味とコクのあるマルメットはソースにすることで料理のバリエーションが飛躍的に増えるだろう。

 

一口囓ってみる。

まず、普段食べている硬い黒パンとは全く違う、白パンの柔らかさと甘さ、バターの香りに驚く。さらに噛み進めていくと歯が肉に当たり、その瞬間中から肉汁が、、、、、

 

、、、、、これは神の食べ物か、、、、」

 

この様な形で異世界に住んでいる住人が食べなれている普段あまり美味しくない食べ物とのギャップに驚きながら、こちらではよく食べられている普通に美味しい料理を解説していく。

料理物であると共に、いわゆるカルチャーギャップものである点がこの物語の醍醐味である。

 

異世界食堂』の仕組みが上手い

実は『異世界食堂』はこれまでのカルチャーギャップ物、料理物の欠点の多くをクリアできる仕組みが整っている。

元来、料理物に出てくる食べ物には、我々が日常的に食べている食べ物を超える美味しさが必要だった。

しかし、この手法の多くが二つの問題点を内包している。

 

一つ、その料理は本当に美味しいのか?

二つ、仮に美味しかったとして文章や絵で表現できるか?

 

異世界食堂』では出しているメニューが近くの洋食屋で出されている料理ばかりなので、一般的な料理の表現すれば良く、通常以上の美味しさを読者に想像させる必要は無い。ある程度美味しい事は読者みんなが分かっている。

 

さらに異世界の住人の多くが初めて見る食べ物を前にして心の中で解説していくので(上記の例で出した緑色の酢漬けはピクルスなのだが)正式名称が出てこない事もある。

逆に言えば、登場人物のありのままの見た目や感想を読むことになり、読者である我々が普段当たり前に食べている洋食を見ても新しい発見をすることになる。

 

最近の料理物(特に漫画)になると奇天烈な料理や、最高峰の食べ物を出すのはやめて、普段食べている食べ物をとても美味しそうに食べるという作品が流行っているが、こういった作品の問題点として挙げるのであればこのひと言に尽きるだろう。

 

「リアクションが大げさ」

 

しかし『異世界食堂』での普通の洋食は異世界の登場人物が普段は食べたことの無い豪華な食べ物として扱われる。

そこには感想が大げさだという物語的な無理が無い。

 

さらに毎回食べ物を食べる登場人物が変わる1話完結型(たまに続き物)になっている点も大きい。

これにより、カルチャーギャップが毎回新鮮に起こせる上、食べ物の感想の度合いがインフレを起こす心配も無い。

 

この様に『異世界食堂』は素晴らしい仕組みにより作られている。

欠点としては毎回毎回主人公が変わるので作者が1から新しい話を作らなくてはいけないということか。

しかし、扉に入って料理を食べて帰って行くというシンプルな物語の骨幹が存在しているため、応用もしやすく、そのため100話以上続けられるのだろう。

 

異世界食堂』最大の魅力と注意点

ここまで色々な要素を書いているが、『異世界食堂』の魅力で大きなものの一つは洋食を通してキャラクターの人生が垣間見れる部分だろう。

 

ある時には止むにやまれず扉に入り込んだり、人生の重要な岐路に差し掛かっていたりとそんな日常を覗き込む。

 

テレビ番組などであなたの思い出のメニューは何ですか?

なんて企画を見ることがあるが、それをリアルタイムで、何かが起こっている当日の状況を見ている気分になれる。

 

このような、人生の物語が描かれている『異世界食堂』は各話を読み終える毎にほっとしたり、これから頑張ろうという気持ちにさせられる。

 

そしてこの『異世界食堂』には最大の魅力が二つあると私は思っている。

一つ目はなろう民みんな大好き平和な世界。

二つ目は「自身の好き」を持っていること。

 

一つ目の平和な世界とは日常系などに代表される争いの無い世界、みんなが平等な世界であることだ。

異世界食堂』に来るお客は人間、将軍、名のある冒険家、羽の生えたフェアリー、角を持っている魔族、鬼、神に近い存在など多岐に渡る。

その誰もが店主にかかれば平等にお客として扱われる。お客同士で世俗(異世界)の事情を無視して単なるお客同士として交流するのが流れの一つになっている。

 

ある意味でみんな平等な優しい世界が作り上げられている。

美味しい食べ物にはそんな効果もあるのかもしれない。

 

そして何よりも重要なのが、二つ目のお客はそれぞれ好きなメニューかあるということだろう。

昨今若者の〇〇離れなどと言われ大衆文化の広がりが弱くなりつつある。情報化の波に飲まれ悪い話も拡散されることで何か一つのことを信じられなくなっているという方も多いかと思う。

 

そんな世の中ではあるが、「異世界食堂」のキャラクターは

自分自身はこの食べ物が大好きである。

他のどんな食べ物を食べたとしても異世界食堂の中で一番美味しいのは自身の好きな食べ物だということは譲れない。

という立場である。

こんな「自身の好き」に自信を持っているということに憧れを抱くのではないだろうか。

 

この物語ではこのような憧れるに値する考えを持つ人々が数多く出てくる。

 

この文章を読んでいるあなたは「私の好きなものは○○だ」と自信を持って言い切ることが出来るだろうか?

もちろん食べ物でなくても構わない。

 

幸せや本人の望みとは世界を救うなどという崇高なものでは無く、意外と身近なものでいいのかもしれない。

 

 

最後に「異世界食堂」の欠点というか、読む上での注意点を書いておこう。

 

お腹がすいている時に読んではいけない。

 

腹八分目な時に読んだとしても、食欲が刺激されついつい食べ物に手が伸びてしまう。

これが「異世界食堂」の欠点であり、作品全体を通して仕掛けられた罠であるからだ。

なろうの小説のコミカライズ化作品について思った事

最近ようやくと言っていいのか、なろう小説のコミカライズ化が認知されてきたのではないかと思う。

Re:ゼロから始める異世界生活」などのようにいくつかはアニメ化され人気を博した物語はあるが、アニメにするほどは人気ではなく、全て語るにはアニメ1期だけでは長すぎるといったものがコミカライズに適しているのではないか。

 

私の個人的な好みの作品ではあるが、2017年3月に「本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~」が完結した。これはもちろんコミカライズ化している。

他にコミカライズしたもので私のおススメしたいものは「盾の勇者の成り上がり」「無職転生 ~異世界行ったら本気だす~」である。

 

基本的にはなろう系の小説は異世界に行ってチートレベルの俺tueee系と揶揄される主人公の活躍劇だが、この私の好きな3つには共通点がある。

下剋上」だ。

 

これらの主人公は下の階層としては強目の立場だが上位に上がるために、努力したり上の階層の人間として慣れる為に頑張っているといういわゆるサクセスストーリーになっている。

一つ目の「本好きの~」のストーリー進行はなろう系版ドラゴンボールと言えるような仕組みで読みやすい。

「本好きの~」の主人公マインは下町の虚弱な少女として生活を始める。そこから町人⇒貴族⇒領主⇒国の重要人物としてどんどん成り上がっていき、その階層ごとに師匠となる人物が出てくる。まるでドラゴンボール亀仙人、神様、カリン様、界王様などメンター(師匠)が変わっていく様な、階層が上がっている実感が分かる仕組みになっている。

また、それぞれの階層に入り込むうえでそれぞれ人物の関係性が変化していく様は女性受けもしやすい。

男女ともに楽しめる作品になっていると思う。

 

二つ目の「無職転生」は元から主人公がかなり強い。しかしある事件をきっかけにしてさらなる強さが必要になってくる。紆余曲折あった結果、世界最高クラスの実力者として認められるほどの強さになってくる。

この「無職転生」は主人公の一代記にもなっていて彼の葛藤や努力、なろうにありがちなハーレム展開も楽しめる。

 

三つ目の「盾の勇者の成り上がり」では導入で主人公が弱い立場に置かれた形で始まる。そこからどう成り上がっていくか、身の回りの信頼を勝ち取っていくかに焦点が当てられて話が展開していく。

 

どの話も権力や強さと内政的なやりとり、心理描写が飛びぬけて良い。

 

しかし、これらの一番の魅力は成り上がりや下剋上というサクセスストーリーであるということだ。

私を含めこのような話が好きな読者は実際の生活でも成功したいという望みが心の中にあるのかもしれない。

いや、このような物語は昔から数多く存在する。今もなお、上記の話がコミカライズ化される程人気なのは上昇志向の人間は現代でもまだまだ多く、今もくすぶっていて、その願望を小説に託しているのだろう。

 

 

今流行りの『けものフレンズ』と「チートでハーレム」の関係性について考えてみた

けものフレンズ・チートでハーレム・ここ20年くらいの大流行したアニメには共通点があるのではないか?そんな話である。

 

けものフレンズが今大流行している。

NHK風のゆったりとした会話と動物の特徴の解説付きという物語の進行で、主人公である「カバン」自身が何者なのかを知るために旅をするロードムービー的ストーリー(6話までは)だ。

一番の魅力はやはりフレンズ達(動物が擬人化された女の子[アニマルガール])の緩い会話とストーリーの陰にある人間の絶滅を示唆する不穏な雰囲気の演出なのだが、そのフレンズ達のする会話、一切の否定をしない完全な優しい世界観に魅了されているのではないかと言われているのをよく見かける。

 

そしてこの一切の否定が無い完全な優しい世界』の程度がこれまでの物語と比べて群を抜いている。

これは物語の構造による点が大きいと考えられる。

まず、フレンズ達はそれぞれ得意・不得意な分野があり、元々の動物(フレンズ化前の姿)に由来している設定だ。そんな様々なフレンズ達との出会いによって展開されたストーリーは物語の中心となるフレンズの得意・不得意を際立たせるためのエピソードになっている。

一般的に登場人物の得意な分野を観客に印象付けたい場合には、登場人物自身の言葉で「これだけすごいんだ」と説明させたり、ナレーションにより凄さを伝えるよりも、他者に褒めさせるという手法を使った方が真実味があり自然な会話が作れる。

このように各フレンズの特長を目立たせるため、相手の得意な部分を言葉に出して褒めることシーンが頻発する。

 

さて、そんな物語を展開させる推進力となる『人間』を入れ込んだ。

人間の得意な分野はもちろん「知恵」である。

「知恵」を使うことが得意なフレンズとして物語を回していくとなると、その対比として他のフレンズの頭を相対的に悪くする必要がある。

しかし、設定上フレンズ化した動物は人間と似たような外見で会話により意思の疎通が出来るようになっている。

そのため「人間の言葉が話せるのに頭が良くない」バカばっかの世界にも関わらず、説明的、もしくは価値観の解説的な「他者を褒める」という、「異常なバカがなんでもない人間の知恵を褒める」という妙にちぐはぐな世界観が出来上がったのではないかと思う。それがよく話題に上がる『すご~い』『◯◯が得意なフレンズなんだね』となる。

結果、他人をガンガン褒めるのにゆるそうな話し方をしているキャバ嬢の様なキャラクターと誰にも否定されない完全な優しい世界が出来上がった。

 

この『欠点があっても受け入れてくれ存在しているだけで愛される世界』にあこがれを抱いているのが今回の『けものフレンズ大流行』という現象なのではないか

 

『欠点があっても受け入れてくれ存在しているだけで愛される世界』という言葉は少し長い。

私の知っている言葉の中で一番近いのが『アガベー』ではないかと思う。無償の愛、真の愛、神の愛。呼び方はいくつもあるがそのような感じだ。

 

そして今回の話の主題は「ヒット作の裏にはアガベーあり」ということである。

少し過去のヒット作を振り返ってみよう。

 

新世紀エヴァンゲリオン

社会現象とまで言われた大ヒット作。

評論の世界では『セカイ系』などと言われ多くの分析をされてきた。このエヴァのテレビシリーズ版最終回では主人公であるシンジは安らぎが欲しい、嫌われたくないという思いで自分の世界に閉じこもる。他者からの批判などの苦痛からの回避のためである人類補完計画、道具として使ったのは完全な世界の代名詞である母親の胎内のメタファーであるエヴァンゲリオンその主人公の内面世界を徹底的に描いた作品となっている。

登場人物の多くが求めているのはやはり母なる愛、無償の愛、アガベーではないだろうか。

(劇場版ではシンジは二者択一の末に結局アガベーではなくエロスを取ったが。)あまりの内面描写ぶりに新興宗教のようだと批判されたのもいい思い出である。

 

涼宮ハルヒの憂鬱

 主人公ハルヒは宇宙人・未来人・超能力者と一緒に遊びたいと公言する、実在したらかなりぶっ飛んだ思考回路の持ち主として描かれている。

これは裏を返すとそうでありたいと願っている自分自身とは違うツマラナイ世界という状況である。拡大解釈して一種のコンプレックスとしよう。(実際には宇宙人、未来人、超能力者は揃って同じ部室にいるのだが、ハルヒ自身の「当然このようであるはず」という世界観が邪魔をして気づくことはない。)

そんな不満のある現状、欠点のある世界ではあるが、みんなと仲良く過ぎしていくうちに段々と不思議なことが起きない一般的な世界が好きになってくる、もしくはそこに染まって普通の生活を価値観を持つようになる。

ハルヒ側からすると、ツマラナイ世界=欠点のある世界にいるにもかかわらず、そんなツマラナイ世界の自分を受け入れてくれ、馬鹿なことにもイヤイヤながら応援してくれるキョンという存在が大切なものになってくる、つまりキョンからアガベーを受け取っているとも言えるのではないか

論理を飛躍しすぎか。

 

このあたりまでは主人公がアガベーを求めさまよう物語であるが、2010年付近になってくるとアガベーに染まった世界で過ごす物語が増えてくる。

 

けいおん!』『ご注文はうさぎですかい?』

これらは分かりやすい。

ホモソーシャルの世界で大人という存在がほぼいない、いわゆる『日常系』の二大巨頭である。

女の子がきゃっきゃウフフするのを見ることが出来る。欠点があっても受け入れ、いいところを褒め合う完成された世界の話である。

 

この傾向はそのままチートでハーレムの物語にも通じるのではないか。

なろうを代表する近年一部からバカにされてきたチートでハーレムものラノベ

その主人公の多くがチート能力を持っている、もしくは逆に主人公の能力はさほどではないが周りの能力や知識が低すぎる現代チートによって周囲から認められる。という物語になっている。

そしてそのような能力の有無に関わらず可愛い・綺麗な娘たちにチヤホヤされるハーレムを築くことになる。

主人公の多くはスポ魂もののような血のにじむ努力をしたわけではないにも関わらず出世していく、特に苦労せずに場合によってはむしろ迷惑だと思いつつも女の娘に囲まれていく。

何もしなくても認められる、欠点を持っていても認められる、ちょっとしたことでも褒められる。これはアガベーではないか。

 

そんな物語を見る・読むなどして楽しいのか?と考える人もいるだろう。

これはなかなか甘い蜜だと思う。現実ではなかなか起こりえないので想像しにくいかとは思うが、このような状態になった人々を報道などで見ることはあるはずだ。

絶対的な権力者である。独裁者や重鎮の政治家、大物芸能人も当てはまるだろう。周囲は全てイエスマンすべてが思うままで周りからもてはやされ全く不足の無い、むしろ過剰な状態が続く。

そんな甘い蜜から抜け出したいと思う人はこの世に何%いるだろうか。いるとするならば、その日とはまさに聖者である。そんなアガベー世界を疑似体験したい、世界に浸りたいと思うのはおかしなことではないと思う。

 

そんな妄想の世界くらい良い思いをしたいという人たちが『けものフレンズ』を支持している層の一つなのかもしれない。

 

結論としては一言。

 

_人人人人人人人人人人人人_
> みんな愛に飢えている <
Y^Y^Y^Y^YY^Y^Y^Y^Y

自信を持つことはもはや無理ゲーなのか

何かしら「自信を持っている」と言える特技や技術があると答えられる人がこれを読んでいる中でどれだけいるだろうか。

 

特殊技能の職場についている人を除いて多くの人が無いと答えると思う。

 

多少得意なことがあったとしても、ネットが普及している今の時代は自分よりも遥かに凄い人がゴロゴロいることを知っている。

そんな中で真に自信を持つことはとても難しい。

 

先日雑誌を読んでいると、「自信を持つ」ことに関して衝撃を受ける記事があった。

日経エンタテイメント』2017年1月号の新海誠監督のインタビュー。

今を時めく大人気作品君の名は。を作った監督だが、「ほしのこえ」や「秒速5センチメートル」など長い間ヒットは飛ばしているがマイナーヒットに留まり、何度も挑戦し続けていた。そしてこの6作目君の名は。で異例の大ヒット。本人もさぞかし自信満々に鼻が高くなっているかと思いきや、インタビューではこう書かれていた。

 

新たな気持ちで王道のエンタテイメントにチャレンジしたのが『君の名はは。』だ。このヒットで監督は何を得たのだろうか。

 

 自信を少しだけいただけました。間違ったことをやってきたわけじゃないんだ、と励ましていただけたと思います。

 

 この後インタビューではいい作品を作ればそれが観客に伝わるということが信じられるようになったという話に続くが、基本的には謙虚な姿勢で自信があり溢れているという印象は受けない。

今まで長い期間下積みを経験した結果で、これほどの偉業を成し遂げてもなお、『自信を少しいただけた』に留まるのなら、ポジティブ思考ではない人はどれだけのことをしたら自信が持てるのだろうかと考えてしまった。

 

それこそ世界を救うくらいはしないと自信が持てないのではないだろうか。

 

そんな世の中だからこそ、異世界での俺ツエー物語を読んで、一時でも主人公と感覚を共有して悦に浸るのは必要なことかもしれない。

異世界転生小説と浄土真宗とパンドラの箱

 小説家になろうの異世界転生ものでよくあるお決まりのパターンの中に「異世界へ」「転生する」というものがある。

 

 主人公は第0章でまず死んでしまう。不慮の事故だったり寿命で天寿を全うしたりなど様々だが、その多くはさえない人生を送っていた主人公が事故により異世界へ転生してチートでハーレムな生活を送るという物語が多い。

 具体的には現在3月8日の小説家になろう月間ランキング上位50位を見てみると、50作品中17作品もの話が初めに主人公が死んでしまいその後異世界へと行くという物語だった。実に3割4分の確立だ(ちなみに転移・召喚は15作品で30%、集団召喚が3作品で6%)。

  私がここで疑問になったのが何故主人公達は『死んでしまい』『異世界へ』と送られるのかだった。特に死ななくてもいいのではないか、そのまま異世界へ転移するだけではだめなのか。単純にテンプレだからと言ってしまえばそれまでだが、このテンプレにが流行るのにはどのような理由があるのか。

 そこから(一部の)現代人の『望み』を考えてみようと思う。

 

 このブログのきっかけになったものがある。シロクマさんの『異世界転生系コンテンツと21世紀の「浄土信仰」』という記事だ。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 今回の話の前提になるので是非読んでいただきたい。

 簡単にまとめると『なろう系小説』は浄土真宗に近いコンテンツであるのではないかとの主張だ。

 

 これまでなろう系小説の「異世界」という点については時代劇や中世ヨーロッパの時代考証もいらない『ぼくのかんがえた さいきょうのせってい』という物語を作るうえで便利なツールだった。また、現実逃避するためのコンテンツとして現代社会ではない場所、異世界に逃げてしまう。このような話は多く作り出されてきた。

 ただ、なろう系小説の全てではないが多くの主人公が死んでしまう事への説明としては不十分であったかと思う。

 その点シロクマさんはそこにスポットを当てて考えている。

 『現代の浄土真宗』という見方はとても面白い。面白いがやはり決定的に異なっている点もあるのではないか。

 浄土真宗、というよりは私は宗教自体に明るくはないが、念仏を唱えることで仏になれる。平等は大事ですよ。という教えだと記憶している。

 時代背景として作物は日照りや洪水など自然の驚異によって簡単に飢饉になってしまう。先が分からない恐怖。飢餓を恐れ、辛い生活を強いられる毎日。そんな今生から逃れるためのシステムだったのではないかと考えられる。

 そこで考えるのは今現代日本に住んでいる皆さんはそこまで飢えにおびえて暮らしているか。そこまで不平等なのかと考えてしまう。

 

 今現在、なろう系小説を読む多くは若年層、ゆとり世代などと揶揄されている人たちがメインの読者になっている。そのうち、ゆとり世代は幼稚園のかけっこで横並びで走らされるという異常な平等。空気を読みメインから外れないよう細心の注意を払って生きることを強いられている抑圧された社会にいる印象を受ける。それでも、平等という面で見るとまだまだ不平等が多くあるが、それでも過去の日本と比較すれば格段に不平等な下層から上層に上がることが可能な社会ではないだろうか。

 そういった点で私は以下の考えを持っている。

 今若者を蝕んでいる苦痛というのは高度に情報化された弊害ではないかと。

 ネットによる情報がいつでも手に入るようになった。それこそ様々な人の様々な考えをいくらでも手に入れることが出来る。そんな大量の情報にさらされてきたゆとり世代はこう考えるのではないだろうか。『どんなことをしても先は見えている』と。

 

 例えば成功して小金持ちになったとしよう。そこでそんな幸せが待っているか。小金持ちの生活をつづるブログを見てこんなものかと考えてしまうのではないか。

 芸能人になって一躍人気者になるとしよう。人気者になると批判され大変そうだな。テレビなどの華やかな舞台にたっても幸せとは言えないし、スキャンダルなんて起こしてしまうとただの無職になってしまう。

 普通の人生を過ごしたとしよう。家族を持ち毎日電車に揺られ仕事をこなして定年を迎えおじいさんになる。

 様々な情報が入りすぎることによって希望が見えなくなってしまっているのではないか。それならば、ほどほどに頑張り自分の趣味を楽しみながら社会の枠組みから外れないよう生きるのが最適解だと思い込んでいるのかもしれない。

 

 こういった状況下において異世界転生小説は今にマッチしているのだと思う。

 先の見えている今の人生では、なしえない沢山の刺激的な事柄を経験しながら主人公が最強という保険のかかった物語は受け入れやすいのだろう。

 この見方からすると今の人生に希望のない来世への期待という点で現代の浄土真宗という考えはいい得ている。

 そして過去と現代の背景の差から見えてくるものは現代の不幸は『先の見える人生に絶望している』のではないか。

 ゆとり世代の送っている世界はさながらドラマチックのかけらもない平凡な「未来日記」。確定した未来を筋書き通りに送っていると思っていることが最大の不幸なのかもしれない。

 

 過去の人気作『涼宮ハルヒの憂鬱』からの流れからも考えてみよう。

 『やれやれ系(承太郎は除く)』『セカイ系』の物語として涼宮ハルヒは有名だが、その発端としてハルヒは野球場に行った際にあまりに多くの人を見て自分自身が特別ではないと気づきその瞬間世界を改変する能力を持つ、そして学校で面白いことを探すSOS団を結成する。

 これはある意味で特別ではない人生、先の見えてしまっている人生に絶望した結果でもあるように感じられる。この絶望は2000年代にはもう蔓延していたのかもしれない。

 

 異世界転生チーレムもの主人公の活躍する物語はこれまで書いてきた絶望も希望も見据えてしまい、全ての未来をパンドラの箱にしまい込んでしまった若年層の現実逃避手段のように見えてくる。

 だからこそ主人公たちは『異世界へ』『転生』しなければいけないのではないか。