『必勝ダンジョン運営方法 相手に合わせる理由がない』備忘録兼感想
ジャンル:ダンジョンマスター系チート
読みづらさ:4
チート度:5
ハーレム度:5
ドラゴンボール感:2
シムシティ感:5
また俺何かやっちゃいました度:2
近う寄れ度:5
現代的価値観の侵食:4
ダンジョンマスター系のなろう作品としてはかなり長期に渡って書いているもので先日(番外編を加えて)1,000話を超えた。
毎日をオタ活で充実させている社会人が神に呼ばれ、別の世界を救ってほしいと依頼される。
ガンダムのRX-78やアーマード・コアのホワイト・グリントを報酬として頑張るお話。
この物語の一番の見どころは主人公のクレバーさである。
主人公がなろうによくある絶対安心なヒーローとして描かれるものは多いが、「ああ、そう来るのか。」という思いもよらない解決法を使う場面がよくある。
ダンジョンマスターものではもはやテンプレとなった人間牧場のシステムを使いシムシティ的な街が育っていく楽しさや現代知識を使い内政チートもバンバンと使っていくのも面白い。
思わぬ方法で困難を切り抜けていく主人公の問題解決術には毎回爽快感がある。
むしろこの物語全体を通して言えることだが、どこか作者は「仮にこんな世界が存在したら決まった枠組みでどんな抜け道が作れるのだろうか?」と話を作っているような気がする。
言ってみればなろうによくある中世風魔法有り世界(いわゆるナーロッパ)を作り出し、そこで様々な思考実験をすることを楽しんでいる感すらある。
このどうしたら上手に物語を着地させるか、登場人物みんながハッピーエンドになるのか、の問題解決能力が他のダンジョンマスターものとは一歩抜きんでていると思う。
その他、特徴としてはサブキャラクターがかなり多く、把握しずらい。
初期の方で奴隷を一度に八人購入した上に、番外編だけでなく本編でそれぞれの視点から物語を綴るという方法をとっているので、各回毎に視点が変わっていくので誰が誰やらと読み直す羽目になる。
登場人物を覚えるのが苦手な人はかなり読むのに苦労するだろう。
そしてなろうによくある「嫁」問題。
これも珍しく正式な嫁が10人を超える。
他のつまらない作品でよくある主人公がむやみやたらにモテまくりハーレムを作っていくというものとは違い、この『必勝~~』では各キャラクターの視点から何故主人公に惹かれていったかやその背景も丁寧に描かれるので、それほど無理を感じない。
というより、かなり現実的な理由から嫁が増えていることすらある。
主人公が偉くなったのに他社に対してそれほどかしこまった態度をとって欲しくない「近う寄れ度」と現代文化を知っているから出来るジョークを言ったりする「現代的価値観の侵食」が高めではあるが、この作品に限ってはしっかりした理由があるのでそれほど気にならない。
まとめて評価すると、癖はあるもののしっかり読み込むと面白い、一言でいうと「なろう界のジョジョ」の様な作品だと思う。
登場人物が多いので分かりやすいコミカライズを期待していたが、そこは残念だった。結局読みずらい。
あとゴブリンのスティーブ回は好きなので、活躍する機会を増やして欲しい。
『転生したらスライムだった件』備忘録兼感想
ジャンル:王道チート
読みづらさ:3
チート度:5
ハーレム度:1
ドラゴンボール感:5
シムシティ感:4
また俺何かやっちゃいました度:3
近う寄れ度:4
現代的価値観の侵食:2
なろう系の代表作ともいえる、もう既に有名になった作品。
ネット版スピンオフにアニメ、漫画、漫画のスピンオフ、ゲームと多方面のメディアに渡って大進撃な作品。
私自身も連載時から読んでいて、小説家になろうにドップリとハマってしまった要因の一つ。
まず、題名が良かった。
それまで異世界ものといえば転生にしろ転移にしろ、どんな能力をつければ面白くなるかという点で試行錯誤されていて、人気作の中には通常転生や魔王への転生、内政もの、ダンジョンものがチラホラと出てきたところだったと思う。
そんな中で、魔族側の弱いイメージのあるスライムが主人公になったという点で今度はその視点で来るか!とインパクトはあった。
さらに「◯◯な件」という当初廃れ始めていたネットスラングを使い、記憶に残しやすくしている。
内容に感しては、一言でいうなればドラゴンボール。
主人公がちょっと強くて、強い敵を倒してさらに強くなって、さらにさらに強い敵と戦うというのがメインの話の筋になっている。
出生によって強い理由が少しずつ明らかになるがそこすらも、ご都合主義だろ!と突っ込まれたら話が出来ないが、全体的に少年誌的なノリで話が進んでいくので安定感がある。
文章は能力値を文中にダラダラと差し込むことは無く、比較的読みやすい。
が、登場人物が一度に増える事があったりするので、コイツ誰だっけ?となる。
一番分かりにくいのが、精神体と肉体の不一致と、実は◯◯でしたという展開にしたいが為の、20世紀少年でいうところの「ともだち」が実は誰なんだ話にさしかかると一気に分かりにくくなってくる。
実際私はここで一度読むのを中断した。
それでも、徐々に仲間が増えて、強くなり、強大な敵と戦いさらに強くなる。
仲間や街を育ててインフレを起こしていく様子は読んでいて気持ちがいい。
日常回のような平和な話が差し込まれるが意外と後の伏線にもなっている事が多く、読み返してみるとプロットを上手く作り込んでいるなと感じる。
別作品では読んでいて気になることもある、主人公が現代人の価値観を持っていて、中世ファンタジー世界の住人が簡単に同意してしまう問題もこの話では上手く処理している。
主人公が魔物だということと、個の力によってなんとでもなる。という価値観を言い方を変えて繰り返していることによって読者に刷り込ませていることであまり気にならない。
主人公がチートで努力しない問題では、主人公自身の努力シーンはほぼ無いか、割愛されている。
ドラゴンボールでいうと宇宙ポットでの修行や精神と時の部屋などの話があっても良さそうだが、この主人公の場合はスライムで能力を奪うという特性上、徐々に強くなっていくのでは無く、敵をやっつけて取り込んだ瞬間に一気に強くなるので、修行シーンが面白くならない。
あっても新しく取得した技の確認で終わる。物語始めの方は技の確認もチートものの醍醐味の一つなので、それも必要だが、後半は同じことをしていれば必ずダレてしまう。
その代わり内政チートのような、他国と会談をして地盤を固めたり、部下が街を異常な速度で開発するなど、シムシティ感覚によって勢力を拡大した感を見せている。
最も上手いなと思った部分は強さの表現について。
それまでの流行りはステータスやスキルによって強さを読者に認識させていたが、転スラの優れているところはステータスやスキルはただの栞で、実際のところは三段階で強さのステージを変えているところだ。
ただの栞とは、各キャラクターの特殊能力の名前が暴食之王(ベルゼビュート)、忍耐之王(ガブリエル)などという名称を付けてどんな事が得意かの方向性だけを指し示しながら、エヴァンゲリオンのように中身は知らないけれどニュアンスカッコいい効果を付け加えている。
三段階のステージとは、
第1段階がランク別の強さ。
第2段階目が究極能力(アルティメットスキル)の有無と能力の使い方や質。
第3段階の超越者の強さの比較では、エネルギー量(EP値)の過多や覚醒魔王級などの比較と、それぞれのキャラクターの能力の相性や性質。
といった強さ判定をヌルッと次の段階へ移行させている点が素晴らしく感じる。
これをすることによって、具体的には分からないけれど、なんかこっちの方が強そうだなという事がステータスを用いなくても頭に入ってくる。
そんな転スラだが、中盤書いたように何度か読むのを中断してしまっている。
要因としては、話数自体はそれ程多く無いのだが、一話あたりの文章量が比較的多目であること。
それと、ヒナタが勇者になるならないの場面で状況が分かりにくい。
ここで一挫けした。
次に挫けてしまったのが、最終章の天魔対戦編。
延々と戦闘シーンが描かれるが、最終章でこれまでの主要キャラクターの一番輝かせないといけない場面。あのキャラはこうでした、一方あのキャラはこうでした。と読んでいくうちに多少飽きてしまった。
工夫をして様々な戦い方をしているのは分かる。単調では無いが、転スラを読むのを放棄して、一度全く別の作品を読んでからまた読み直したら面白く続きが読めた。というのが正直な個人の感想。
なろう系では半分頭をぼんやりさせながらも読むことが出来るところが個人的には好きだったりする。部分的に小難しいところはあるが基本的には雰囲気でご都合主義を使いチートがマックスな作品かと思う。
色々悪い部分も書いたがかなり面白い。
主人公や味方がどんどん強くなっていき街は大きくなり、リムルの強さや影響力が拡大していく。
少年誌の様な次々に強くなっていく爽快感を様々なテクニックを使い演出している良作だと思う。
追伸
番外編も面白く、それ単体ではあり得ないデウス・エクス・マギナ感もあるがカルチャーギャップものの手法を使っていたりで本編を読み終わって番外編はいいやと思ってる人がいたらもったいない。オススメ。
コミカライズもいい感じで特に転スラ日記は元の戦闘バリバリの世界観を基にしながら上手く日常系の良さを出している。
アニメは感想こちら。一言でいうと時期が悪かった。
備忘録兼感想について
これまでこのブログでは色々と小説家になろうの小説を基に様々な思い付きや読者は実はこう思っているのではないかという望みを考えてきたが、多くのなろう系小説読むうちにこのストーリーはこの作品?このアイデアはこの作品?と覚えていられなくなってきてしまった。
そこで「よし!もう備忘録がてら感想を書いていこう」ということになった。
ただ書くのでは面白くないので世間では嫌われそうな点をランク付けしてその人にとっての地雷を防ぐというのもつけてみようかと思う。
項目一覧
・ジャンル
・文章の読みづらさ
・チート度
・ハーレム度
・ドラゴンボール感
・シムシティ感
・また俺何かやっちゃいました度
・近う寄れ度
・現代的価値観の侵食
ジャンル、文章の読みづらさ、チート度、ハーレム度はそのまま意味の通り。
ドラゴンボール感はいかにも少年誌的な展開の度合い。ムシティ感は町がそんな簡単に育っていくのはあり得ないだろという気持ち。近う寄れ度は貴族や王族と簡単に打ち解けてしまう、もしくは権力者にあり得ないぐらいタメ口をきいたりと偉い人に対しての気安く接している度合い。現代的価値観の浸食は奴隷制度が続いているはずの中世ヨーロッパ的な価値観風であるにも関わらず登場人物がことごとく現代的価値観を持っている度合い。
で評価していく。
気休め的な地雷発見として役に立ててくれれば幸いだ。
神の扱いから見たなろう読者の望みを実現するための仮説
今回はアニメやラノベにおける神様の扱いからなろう読者の望みを考えてみた。
最近ふと、まどかマギカの評論を聞いて「神」を視点に考えてみると面白いと感じた。
やはりフィクションの中では神様というのは使いやすいメタファーであり、ストーリー展開をなんとでも出来るワイルドカードだなと改めて分かる。
まどマギに関しては解説や評論を読んでいる方々なら分かっているであろうが、神と悪魔、アガベーとエロス、秩序と混沌などという観点で語られることも多いと思う。
「神」とは絶対的な存在であり、その領域を犯すことのできない特別な存在である。
なろう系での「神」の扱い
さて、なろう系では 「神」はどのように扱われているだろうか。
死んでしまった主人公にチート能力を与える存在になっていることが多い。
力が欲しいという願望を叶えてくれる創作物では主人公が神になるのが手っ取り早いはずなのだがなろう系では意外と少ない。
代表的なテンプレを上げると、トラックに引かれ神様からチートを与えられ異世界に飛ばされる。という流れがある。
なろう系では多くの作品が最終的に神になるのではなく、あくまでも神からチート能力を授かる。という展開が多い(例外として不定形主人公などが強さのインフレを起こして神を超えるものもあるが)。
つまり読者としては自身が神になるのではなく、辛いことの多い今の世の中から脱してもっと素晴らしい異世界へと行って悠々自適に暮らしたいという意図が透けて見える。
このブログは元々、なろう系というものは現代の浄土信仰ではないかという記事を読んで書き始めたのだが、よくよく考えてみると仏教における救済とは「世の中は辛く、そこで悟りを開いて輪廻の輪から抜け出る。」という考えであると思っている。
ただ、なろう系の多くは多少はしんどいこともあるが、それほど悪くない今の世の中から転生・転移をして神様から才能(タレント)を与えられて次の世界へと旅立つ。(『無職転生 』 などは辛い世の中だが。。。)
あくまでも悟って世の中の辛いことを些細なものだと気づくのではなく、絶対的な神という存在からタレントを授かってより良い世界へ旅立つというのがテンプレとなっている。
意外と日本にはキリスト観が根付きつつあるのかもしれない。
ここでもう一度なろう系の神の扱いを考えてみる。
多くの作品の中で神とは初めに出てきてチートを与えるだけ。ということが多い。
中には一緒に次の世界へと旅立つものがあるが、その場合は大抵が女神(ミューズ)として存在してハーレム要員になることもままある。
そしてミューズは力を持っていることもあり、自由で天真爛漫だ。
神は主人公にチートを与えるものであり、数ある作品の中には神の意志があまりに意図を持ちすぎて「この異世界は何のために作られたのか?」といった「セカイ系」的作品のストーリー進行上のサスペンスとして機能する場合もある。
しかし、ほとんどの場合、基本的になろう系では主人公自身が神にならないし、なろうと目指さない。
神は絶対的な存在で主人公とは関わることもなくチートを与えるだけのことが多く、過去の少年ジャンプのような絶対的な強さの象徴として目指すべき対象にならない。
女性向けなろう系小説の「神」
話を少し変えて、なろう系異世界転生ものでも女性向けの作品では様相が変わってくる。
最近多い異世界転生の恋愛カテゴリのテンプレでは、主人公はこの世界の乙女ゲーの登場人物(主人公だったり悪役令嬢だったりするが)になることが多く見受けられる。
この場合には主人公はゲームの中の登場人物と恋に落ち結ばれるというのがお約束であるが、現世で入り込む先の異世界である、乙女ゲーの情報を把握していることが多い。
ゲームをしている主人公がその中に入り込む。
つまりメタ的な視点で転生先の世界のこれからの未来や登場人物の性格や過去、秘密など様々なことが分かっている。
これは言い替えると主人公が神の視点になるといことになるのではないだろうか。
(もちろんテンプレはそれだけではなく、主人公が下級貴族の令嬢がシンデレラストーリーになったり、貧乏な農村の娘が王子に見初められてシンデレラストーリーになったりと、乙女ゲーをやりこんだ主人公というのは多くて1/3程度ではあるが)
ここで改めて女性向けで神に関わる人気漫画アニメを調べてみた。
人気上位に来ているのが『神様はじめました』や『かみちゃまかりん』。主人公自身が神様になっている。
世界で一番売れたコミックとしてギネスにも載っている『フルーツバスケット』の内容を雑にさらうと、主人公が色々苦悩しながら「みんなに愛される」という神様の座を奪うというストーリーにも見える。
実は神様になりたい願望は男性よりも女性のほうが強いのではないか。
そろそろ結論を
なろう系主人公は、男性向けでは神から能力を受けたい。女性向けは自身が神になりたい。ということにしておこう。
その前提で、ここからは極論であり、暴論であり、個人の勝手な意見ではあるが、なろう系読者の心のうちの望みを転生せずに現代で叶えられるという事を前提にうまくマッチングさせればいいのではないかと考えた。神になりたいなろう女子と神に祝福を受けたいなろう男子のマッチングだ。つまり
『姉さん女房と年下男 』はどうだろうか。
あくまで実現可能でなろう読者の秘めた願いを叶えるということならコレだろう。
神になりたい願望があるなろう女子は年下の男を捕まえてうまく掌で転がせ。
いいように持ち上げてなだめすかし、男を出世させたり高いスキルを身につけさせろ。
現代で力を持っている男に唯一愛されるにはこれが一番手っ取り早い。
可愛くない?気にするな男はバカだ。雰囲気で押し通せ。
逆に男どもは掌で転がされながら力をつけろ。
自分のために力をつけるというのがスポ魂的な感じで嫌なのだろう。
なろう好き男子の本質としては、辛いことを続けるのが嫌だという逃げの姿勢がチートに表れていると思う。
つまり、頑張る対象がいればその努力自体はストレスに感じにくい。
お金の力だったり、権力でも、資格でもなんでもいい。女に喜んでもらうための何かを身につけろ。
そして筋トレしろ。骨ばった薄めの体なのに、意外と筋肉があっていざという時には力強いというのは女子の憧れだぞ。
顔はこの際しょうがない。美女と野獣を思い出せ。
そして男子向けなろう系で欠かせないのがハーレム要素である。
今の日本は一夫多妻は受け入れられない。
さて、どうするか。
ハーレムというものの要素を分解してみよう。
ハーレム=(力を持っている男性主人公に対して)たくさんの可愛いもしくは綺麗な存在+庇護しなければいけない格下の存在+エロい
ここから性的な要素を抜いてみると、庇護しなければいけない可愛くて弱い者の集まり。つまりたくさんの子供でもいいのではないか。
姉さん女房と年下男 が子だくさんの家庭を築く。
現代で似たような居場所を作るにはコレが最適ではないか。
むしろなろう系の読者は心の奥底でこういった願望を抱いているのではないか。
まあ、「それが出来ないから小説に逃げているのでは?」と言われたら反論のしようは無いのではあるが。
『異世界食堂』の魅力と罠
2017年夏期にアニメ化される『異世界食堂』。
作品自体はなろうで2013年から連載している。
今回のアニメ化に際し、人気の秘密、魅力、そして読むときの守らなければいけない注意点を語っていこうと思う。
まず、概要説明すると
毎回出てくる洋食屋のおっちゃんは普通の人である。
こんな設定の物語でよくあるパターンとして、異世界に迷い込み料理がうまいと評判を聞きつけられて、王宮に召し抱えられ、王の側近として内政チートを起こし国を豊かにしていくというのが異世界ものあるあるだ。
しかし、この『異世界食堂』に毎回出てくるキャラクターは普通のおっちゃんのままで、剣も振らず、国に関わることもない。というより店からすらあまり出ない本当にただのオーナーシェフだ。
異世界要素はどこにあるかと言われると、扉が異世界に繋がっていることである。
「扉を開けたら異世界でした。ただし、中は普通の洋食屋。異世界なのは扉の前です」
漫画の帯を付けるとしたらこんな感じだろう。
週に1回「ドヨウの日」に異世界の住人が現代日本の一般的な洋食屋に入り込んでお客として舌鼓を打ち満足し、扉から異世界に帰って行く。
あらすじとして書くとただこれだけの物語であるがとても面白い。
『異世界食堂』の魅力
魅力はやはり料理だろう。
とても美味しそうに描かれて客が満足していく。
小説の食べ物紹介文のイメージをハンバーガーで例えるなら以下の様な感じだろうか?
「俺が頼んだのはハンバーガーなる食べ物だった。丸く中央が膨らんだパンを横に半分に切り、中に肉の塊と厚めに切ったオラニエ、酸味を付けた緑色の野菜が挟んであるという簡単な料理だ。
しかし、とりわけ目を引くのが赤いどろっとしたソースだ。恐らくマルメットを原料にしたのだろうがそのアイデアだけで商品にできる画期的なものだ。酸味とコクのあるマルメットはソースにすることで料理のバリエーションが飛躍的に増えるだろう。
一口囓ってみる。
まず、普段食べている硬い黒パンとは全く違う、白パンの柔らかさと甘さ、バターの香りに驚く。さらに噛み進めていくと歯が肉に当たり、その瞬間中から肉汁が、、、、、
、、、、、これは神の食べ物か、、、、」
この様な形で異世界に住んでいる住人が食べなれている普段あまり美味しくない食べ物とのギャップに驚きながら、こちらではよく食べられている普通に美味しい料理を解説していく。
料理物であると共に、いわゆるカルチャーギャップものである点がこの物語の醍醐味である。
『異世界食堂』の仕組みが上手い
実は『異世界食堂』はこれまでのカルチャーギャップ物、料理物の欠点の多くをクリアできる仕組みが整っている。
元来、料理物に出てくる食べ物には、我々が日常的に食べている食べ物を超える美味しさが必要だった。
しかし、この手法の多くが二つの問題点を内包している。
一つ、その料理は本当に美味しいのか?
二つ、仮に美味しかったとして文章や絵で表現できるか?
『異世界食堂』では出しているメニューが近くの洋食屋で出されている料理ばかりなので、一般的な料理の表現すれば良く、通常以上の美味しさを読者に想像させる必要は無い。ある程度美味しい事は読者みんなが分かっている。
さらに異世界の住人の多くが初めて見る食べ物を前にして心の中で解説していくので(上記の例で出した緑色の酢漬けはピクルスなのだが)正式名称が出てこない事もある。
逆に言えば、登場人物のありのままの見た目や感想を読むことになり、読者である我々が普段当たり前に食べている洋食を見ても新しい発見をすることになる。
最近の料理物(特に漫画)になると奇天烈な料理や、最高峰の食べ物を出すのはやめて、普段食べている食べ物をとても美味しそうに食べるという作品が流行っているが、こういった作品の問題点として挙げるのであればこのひと言に尽きるだろう。
「リアクションが大げさ」
しかし『異世界食堂』での普通の洋食は異世界の登場人物が普段は食べたことの無い豪華な食べ物として扱われる。
そこには感想が大げさだという物語的な無理が無い。
さらに毎回食べ物を食べる登場人物が変わる1話完結型(たまに続き物)になっている点も大きい。
これにより、カルチャーギャップが毎回新鮮に起こせる上、食べ物の感想の度合いがインフレを起こす心配も無い。
この様に『異世界食堂』は素晴らしい仕組みにより作られている。
欠点としては毎回毎回主人公が変わるので作者が1から新しい話を作らなくてはいけないということか。
しかし、扉に入って料理を食べて帰って行くというシンプルな物語の骨幹が存在しているため、応用もしやすく、そのため100話以上続けられるのだろう。
『異世界食堂』最大の魅力と注意点
ここまで色々な要素を書いているが、『異世界食堂』の魅力で大きなものの一つは洋食を通してキャラクターの人生が垣間見れる部分だろう。
ある時には止むにやまれず扉に入り込んだり、人生の重要な岐路に差し掛かっていたりとそんな日常を覗き込む。
テレビ番組などであなたの思い出のメニューは何ですか?
なんて企画を見ることがあるが、それをリアルタイムで、何かが起こっている当日の状況を見ている気分になれる。
このような、人生の物語が描かれている『異世界食堂』は各話を読み終える毎にほっとしたり、これから頑張ろうという気持ちにさせられる。
そしてこの『異世界食堂』には最大の魅力が二つあると私は思っている。
一つ目はなろう民みんな大好き平和な世界。
二つ目は「自身の好き」を持っていること。
一つ目の平和な世界とは日常系などに代表される争いの無い世界、みんなが平等な世界であることだ。
『異世界食堂』に来るお客は人間、将軍、名のある冒険家、羽の生えたフェアリー、角を持っている魔族、鬼、神に近い存在など多岐に渡る。
その誰もが店主にかかれば平等にお客として扱われる。お客同士で世俗(異世界)の事情を無視して単なるお客同士として交流するのが流れの一つになっている。
ある意味でみんな平等な優しい世界が作り上げられている。
美味しい食べ物にはそんな効果もあるのかもしれない。
そして何よりも重要なのが、二つ目のお客はそれぞれ好きなメニューかあるということだろう。
昨今若者の〇〇離れなどと言われ大衆文化の広がりが弱くなりつつある。情報化の波に飲まれ悪い話も拡散されることで何か一つのことを信じられなくなっているという方も多いかと思う。
そんな世の中ではあるが、「異世界食堂」のキャラクターは
自分自身はこの食べ物が大好きである。
他のどんな食べ物を食べたとしても異世界食堂の中で一番美味しいのは自身の好きな食べ物だということは譲れない。
という立場である。
こんな「自身の好き」に自信を持っているということに憧れを抱くのではないだろうか。
この物語ではこのような憧れるに値する考えを持つ人々が数多く出てくる。
この文章を読んでいるあなたは「私の好きなものは○○だ」と自信を持って言い切ることが出来るだろうか?
もちろん食べ物でなくても構わない。
幸せや本人の望みとは世界を救うなどという崇高なものでは無く、意外と身近なものでいいのかもしれない。
最後に「異世界食堂」の欠点というか、読む上での注意点を書いておこう。
お腹がすいている時に読んではいけない。
腹八分目な時に読んだとしても、食欲が刺激されついつい食べ物に手が伸びてしまう。
これが「異世界食堂」の欠点であり、作品全体を通して仕掛けられた罠であるからだ。
なろうの小説のコミカライズ化作品について思った事
最近ようやくと言っていいのか、なろう小説のコミカライズ化が認知されてきたのではないかと思う。
「Re:ゼロから始める異世界生活」などのようにいくつかはアニメ化され人気を博した物語はあるが、アニメにするほどは人気ではなく、全て語るにはアニメ1期だけでは長すぎるといったものがコミカライズに適しているのではないか。
私の個人的な好みの作品ではあるが、2017年3月に「本好きの下剋上 ~司書になるためには手段を選んでいられません~」が完結した。これはもちろんコミカライズ化している。
他にコミカライズしたもので私のおススメしたいものは「盾の勇者の成り上がり」「無職転生 ~異世界行ったら本気だす~」である。
基本的にはなろう系の小説は異世界に行ってチートレベルの俺tueee系と揶揄される主人公の活躍劇だが、この私の好きな3つには共通点がある。
「下剋上」だ。
これらの主人公は下の階層としては強目の立場だが上位に上がるために、努力したり上の階層の人間として慣れる為に頑張っているといういわゆるサクセスストーリーになっている。
一つ目の「本好きの~」のストーリー進行はなろう系版ドラゴンボールと言えるような仕組みで読みやすい。
「本好きの~」の主人公マインは下町の虚弱な少女として生活を始める。そこから町人⇒貴族⇒領主⇒国の重要人物としてどんどん成り上がっていき、その階層ごとに師匠となる人物が出てくる。まるでドラゴンボールの亀仙人、神様、カリン様、界王様などメンター(師匠)が変わっていく様な、階層が上がっている実感が分かる仕組みになっている。
また、それぞれの階層に入り込むうえでそれぞれ人物の関係性が変化していく様は女性受けもしやすい。
男女ともに楽しめる作品になっていると思う。
二つ目の「無職転生」は元から主人公がかなり強い。しかしある事件をきっかけにしてさらなる強さが必要になってくる。紆余曲折あった結果、世界最高クラスの実力者として認められるほどの強さになってくる。
この「無職転生」は主人公の一代記にもなっていて彼の葛藤や努力、なろうにありがちなハーレム展開も楽しめる。
三つ目の「盾の勇者の成り上がり」では導入で主人公が弱い立場に置かれた形で始まる。そこからどう成り上がっていくか、身の回りの信頼を勝ち取っていくかに焦点が当てられて話が展開していく。
どの話も権力や強さと内政的なやりとり、心理描写が飛びぬけて良い。
しかし、これらの一番の魅力は成り上がりや下剋上というサクセスストーリーであるということだ。
私を含めこのような話が好きな読者は実際の生活でも成功したいという望みが心の中にあるのかもしれない。
いや、このような物語は昔から数多く存在する。今もなお、上記の話がコミカライズ化される程人気なのは上昇志向の人間は現代でもまだまだ多く、今もくすぶっていて、その願望を小説に託しているのだろう。
今流行りの『けものフレンズ』と「チートでハーレム」の関係性について考えてみた
けものフレンズ・チートでハーレム・ここ20年くらいの大流行したアニメには共通点があるのではないか?そんな話である。
けものフレンズが今大流行している。
NHK風のゆったりとした会話と動物の特徴の解説付きという物語の進行で、主人公である「カバン」自身が何者なのかを知るために旅をするロードムービー的ストーリー(6話までは)だ。
一番の魅力はやはりフレンズ達(動物が擬人化された女の子[アニマルガール])の緩い会話とストーリーの陰にある人間の絶滅を示唆する不穏な雰囲気の演出なのだが、そのフレンズ達のする会話、一切の否定をしない完全な優しい世界観に魅了されているのではないかと言われているのをよく見かける。
そしてこの『一切の否定が無い完全な優しい世界』の程度がこれまでの物語と比べて群を抜いている。
これは物語の構造による点が大きいと考えられる。
まず、フレンズ達はそれぞれ得意・不得意な分野があり、元々の動物(フレンズ化前の姿)に由来している設定だ。そんな様々なフレンズ達との出会いによって展開されたストーリーは物語の中心となるフレンズの得意・不得意を際立たせるためのエピソードになっている。
一般的に登場人物の得意な分野を観客に印象付けたい場合には、登場人物自身の言葉で「これだけすごいんだ」と説明させたり、ナレーションにより凄さを伝えるよりも、他者に褒めさせるという手法を使った方が真実味があり自然な会話が作れる。
このように各フレンズの特長を目立たせるため、相手の得意な部分を言葉に出して褒めることシーンが頻発する。
さて、そんな物語を展開させる推進力となる『人間』を入れ込んだ。
人間の得意な分野はもちろん「知恵」である。
「知恵」を使うことが得意なフレンズとして物語を回していくとなると、その対比として他のフレンズの頭を相対的に悪くする必要がある。
しかし、設定上フレンズ化した動物は人間と似たような外見で会話により意思の疎通が出来るようになっている。
そのため「人間の言葉が話せるのに頭が良くない」バカばっかの世界にも関わらず、説明的、もしくは価値観の解説的な「他者を褒める」という、「異常なバカがなんでもない人間の知恵を褒める」という妙にちぐはぐな世界観が出来上がったのではないかと思う。それがよく話題に上がる『すご~い』『◯◯が得意なフレンズなんだね』となる。
結果、他人をガンガン褒めるのにゆるそうな話し方をしているキャバ嬢の様なキャラクターと誰にも否定されない完全な優しい世界が出来上がった。
この『欠点があっても受け入れてくれ存在しているだけで愛される世界』にあこがれを抱いているのが今回の『けものフレンズ大流行』という現象なのではないか。
『欠点があっても受け入れてくれ存在しているだけで愛される世界』という言葉は少し長い。
私の知っている言葉の中で一番近いのが『アガベー』ではないかと思う。無償の愛、真の愛、神の愛。呼び方はいくつもあるがそのような感じだ。
そして今回の話の主題は「ヒット作の裏にはアガベーあり」ということである。
少し過去のヒット作を振り返ってみよう。
社会現象とまで言われた大ヒット作。
評論の世界では『セカイ系』などと言われ多くの分析をされてきた。このエヴァのテレビシリーズ版最終回では主人公であるシンジは安らぎが欲しい、嫌われたくないという思いで自分の世界に閉じこもる。他者からの批判などの苦痛からの回避のためである人類補完計画、道具として使ったのは完全な世界の代名詞である母親の胎内のメタファーであるエヴァンゲリオン。その主人公の内面世界を徹底的に描いた作品となっている。
登場人物の多くが求めているのはやはり母なる愛、無償の愛、アガベーではないだろうか。
(劇場版ではシンジは二者択一の末に結局アガベーではなくエロスを取ったが。)あまりの内面描写ぶりに新興宗教のようだと批判されたのもいい思い出である。
『涼宮ハルヒの憂鬱』
主人公ハルヒは宇宙人・未来人・超能力者と一緒に遊びたいと公言する、実在したらかなりぶっ飛んだ思考回路の持ち主として描かれている。
これは裏を返すとそうでありたいと願っている自分自身とは違うツマラナイ世界という状況である。拡大解釈して一種のコンプレックスとしよう。(実際には宇宙人、未来人、超能力者は揃って同じ部室にいるのだが、ハルヒ自身の「当然このようであるはず」という世界観が邪魔をして気づくことはない。)
そんな不満のある現状、欠点のある世界ではあるが、みんなと仲良く過ぎしていくうちに段々と不思議なことが起きない一般的な世界が好きになってくる、もしくはそこに染まって普通の生活を価値観を持つようになる。
ハルヒ側からすると、ツマラナイ世界=欠点のある世界にいるにもかかわらず、そんなツマラナイ世界の自分を受け入れてくれ、馬鹿なことにもイヤイヤながら応援してくれるキョンという存在が大切なものになってくる、つまりキョンからアガベーを受け取っているとも言えるのではないか。
論理を飛躍しすぎか。
このあたりまでは主人公がアガベーを求めさまよう物語であるが、2010年付近になってくるとアガベーに染まった世界で過ごす物語が増えてくる。
『けいおん!』『ご注文はうさぎですかい?』
これらは分かりやすい。
ホモソーシャルの世界で大人という存在がほぼいない、いわゆる『日常系』の二大巨頭である。
女の子がきゃっきゃウフフするのを見ることが出来る。欠点があっても受け入れ、いいところを褒め合う完成された世界の話である。
この傾向はそのままチートでハーレムの物語にも通じるのではないか。
なろうを代表する近年一部からバカにされてきたチートでハーレムものラノベ。
その主人公の多くがチート能力を持っている、もしくは逆に主人公の能力はさほどではないが周りの能力や知識が低すぎる現代チートによって周囲から認められる。という物語になっている。
そしてそのような能力の有無に関わらず可愛い・綺麗な娘たちにチヤホヤされるハーレムを築くことになる。
主人公の多くはスポ魂もののような血のにじむ努力をしたわけではないにも関わらず出世していく、特に苦労せずに場合によってはむしろ迷惑だと思いつつも女の娘に囲まれていく。
何もしなくても認められる、欠点を持っていても認められる、ちょっとしたことでも褒められる。これはアガベーではないか。
そんな物語を見る・読むなどして楽しいのか?と考える人もいるだろう。
これはなかなか甘い蜜だと思う。現実ではなかなか起こりえないので想像しにくいかとは思うが、このような状態になった人々を報道などで見ることはあるはずだ。
絶対的な権力者である。独裁者や重鎮の政治家、大物芸能人も当てはまるだろう。周囲は全てイエスマン、すべてが思うままで周りからもてはやされ全く不足の無い、むしろ過剰な状態が続く。
そんな甘い蜜から抜け出したいと思う人はこの世に何%いるだろうか。いるとするならば、その日とはまさに聖者である。そんなアガベー世界を疑似体験したい、世界に浸りたいと思うのはおかしなことではないと思う。
そんな妄想の世界くらい良い思いをしたいという人たちが『けものフレンズ』を支持している層の一つなのかもしれない。
結論としては一言。
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> みんな愛に飢えている <
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