なろう系小説から現代人の望みを考えてみるブログ

なろう系小説は現実逃避ツールなの?現代はそこまで不幸な世の中なの?小説家になろうから現在人の望みは何なのかを考えてみるブログです。

異世界転生小説と浄土真宗とパンドラの箱

 小説家になろうの異世界転生ものでよくあるお決まりのパターンの中に「異世界へ」「転生する」というものがある。

 

 主人公は第0章でまず死んでしまう。不慮の事故だったり寿命で天寿を全うしたりなど様々だが、その多くはさえない人生を送っていた主人公が事故により異世界へ転生してチートでハーレムな生活を送るという物語が多い。

 具体的には現在3月8日の小説家になろう月間ランキング上位50位を見てみると、50作品中17作品もの話が初めに主人公が死んでしまいその後異世界へと行くという物語だった。実に3割4分の確立だ(ちなみに転移・召喚は15作品で30%、集団召喚が3作品で6%)。

  私がここで疑問になったのが何故主人公達は『死んでしまい』『異世界へ』と送られるのかだった。特に死ななくてもいいのではないか、そのまま異世界へ転移するだけではだめなのか。単純にテンプレだからと言ってしまえばそれまでだが、このテンプレにが流行るのにはどのような理由があるのか。

 そこから(一部の)現代人の『望み』を考えてみようと思う。

 

 このブログのきっかけになったものがある。シロクマさんの『異世界転生系コンテンツと21世紀の「浄土信仰」』という記事だ。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 今回の話の前提になるので是非読んでいただきたい。

 簡単にまとめると『なろう系小説』は浄土真宗に近いコンテンツであるのではないかとの主張だ。

 

 これまでなろう系小説の「異世界」という点については時代劇や中世ヨーロッパの時代考証もいらない『ぼくのかんがえた さいきょうのせってい』という物語を作るうえで便利なツールだった。また、現実逃避するためのコンテンツとして現代社会ではない場所、異世界に逃げてしまう。このような話は多く作り出されてきた。

 ただ、なろう系小説の全てではないが多くの主人公が死んでしまう事への説明としては不十分であったかと思う。

 その点シロクマさんはそこにスポットを当てて考えている。

 『現代の浄土真宗』という見方はとても面白い。面白いがやはり決定的に異なっている点もあるのではないか。

 浄土真宗、というよりは私は宗教自体に明るくはないが、念仏を唱えることで仏になれる。平等は大事ですよ。という教えだと記憶している。

 時代背景として作物は日照りや洪水など自然の驚異によって簡単に飢饉になってしまう。先が分からない恐怖。飢餓を恐れ、辛い生活を強いられる毎日。そんな今生から逃れるためのシステムだったのではないかと考えられる。

 そこで考えるのは今現代日本に住んでいる皆さんはそこまで飢えにおびえて暮らしているか。そこまで不平等なのかと考えてしまう。

 

 今現在、なろう系小説を読む多くは若年層、ゆとり世代などと揶揄されている人たちがメインの読者になっている。そのうち、ゆとり世代は幼稚園のかけっこで横並びで走らされるという異常な平等。空気を読みメインから外れないよう細心の注意を払って生きることを強いられている抑圧された社会にいる印象を受ける。それでも、平等という面で見るとまだまだ不平等が多くあるが、それでも過去の日本と比較すれば格段に不平等な下層から上層に上がることが可能な社会ではないだろうか。

 そういった点で私は以下の考えを持っている。

 今若者を蝕んでいる苦痛というのは高度に情報化された弊害ではないかと。

 ネットによる情報がいつでも手に入るようになった。それこそ様々な人の様々な考えをいくらでも手に入れることが出来る。そんな大量の情報にさらされてきたゆとり世代はこう考えるのではないだろうか。『どんなことをしても先は見えている』と。

 

 例えば成功して小金持ちになったとしよう。そこでそんな幸せが待っているか。小金持ちの生活をつづるブログを見てこんなものかと考えてしまうのではないか。

 芸能人になって一躍人気者になるとしよう。人気者になると批判され大変そうだな。テレビなどの華やかな舞台にたっても幸せとは言えないし、スキャンダルなんて起こしてしまうとただの無職になってしまう。

 普通の人生を過ごしたとしよう。家族を持ち毎日電車に揺られ仕事をこなして定年を迎えおじいさんになる。

 様々な情報が入りすぎることによって希望が見えなくなってしまっているのではないか。それならば、ほどほどに頑張り自分の趣味を楽しみながら社会の枠組みから外れないよう生きるのが最適解だと思い込んでいるのかもしれない。

 

 こういった状況下において異世界転生小説は今にマッチしているのだと思う。

 先の見えている今の人生では、なしえない沢山の刺激的な事柄を経験しながら主人公が最強という保険のかかった物語は受け入れやすいのだろう。

 この見方からすると今の人生に希望のない来世への期待という点で現代の浄土真宗という考えはいい得ている。

 そして過去と現代の背景の差から見えてくるものは現代の不幸は『先の見える人生に絶望している』のではないか。

 ゆとり世代の送っている世界はさながらドラマチックのかけらもない平凡な「未来日記」。確定した未来を筋書き通りに送っていると思っていることが最大の不幸なのかもしれない。

 

 過去の人気作『涼宮ハルヒの憂鬱』からの流れからも考えてみよう。

 『やれやれ系(承太郎は除く)』『セカイ系』の物語として涼宮ハルヒは有名だが、その発端としてハルヒは野球場に行った際にあまりに多くの人を見て自分自身が特別ではないと気づきその瞬間世界を改変する能力を持つ、そして学校で面白いことを探すSOS団を結成する。

 これはある意味で特別ではない人生、先の見えてしまっている人生に絶望した結果でもあるように感じられる。この絶望は2000年代にはもう蔓延していたのかもしれない。

 

 異世界転生チーレムもの主人公の活躍する物語はこれまで書いてきた絶望も希望も見据えてしまい、全ての未来をパンドラの箱にしまい込んでしまった若年層の現実逃避手段のように見えてくる。

 だからこそ主人公たちは『異世界へ』『転生』しなければいけないのではないか。